ニートです。

日記とメモ。

海外ニート生活

 

 

私は今まで人生が楽しくないと嘆いている人の気持ちが全く理解できなかったのだけれど、最近はなんだかそれがわかるような気がしてきているから、調子が狂う。

 

私はずうっと海外での生活に憧れていた。英語で国を超えた人々とコミュニケーションを取り、異国の地で暮らすこと。それは私にとってとてもまぶしくて、毎日が楽しく新しいものになるに違いないと心を躍らせていた。でも実際に住んでみて今感じるのは、結局そんなのだって時間が経てば慣れてくるし、そうなれば私が抱いていた色んな期待もいつのまにか無くなって、冷静に現実を見つめるようになる。国を超えて友達が出来た、人と繋がれた、なんていう感動はもはや私にはなくて、気づいたことといえば結局人種や文化は私たちの間に深く根付いているし、結局男と女なんていきつく果ては見え透いているということ。私はそういう現実をそういうものかと受け入れてしまったから、今毎日が楽しくないんだと思う。大学1年生とかそれくらいの頃の私はきっとまだ子供だったから、馬鹿正直に、まっすぐ素直に色々なことを捉えていたように思う。結局さぁ、とか、つまりはさぁ、とか、そうやって全てを知ったように語る大人が大嫌いだったはずなのに。そんな人たちに抗うために自分なりに動いてきたはずなのに。結局は自分だってそんなふうに考えるようになってしまっていることが少し悲しいし、なによりもそんな自分を鼓舞するものが今何も見当たらないということが一番悲しい。自分がこんなふうに色々なことに対して諦めに近い感情を持つようになることは、地に足をつけた大人になったように見せかけて、全然欲しくなんかなかった大きな誤算だ。

 

夢は夢のまま、欲望は欲望のまま、形にせずにそっとしておくほうがいいのかな。いや、そんなことはない。何かを追いかけたり何かを実現しようとして奔走することは人生に何かしらの意味を持たせるはず。人生が楽しいと、生きがいがあるんだと感じるのってやっぱり、自分が他人や社会から認められた瞬間にあると思っているから。異性に口説かれるとか、仕事で成果を挙げるとか、個人的な目標を達成できたとか、新しい何かにチャレンジするとか。でも私は今そういう行動を起こすことに意味を見出せなくなってきている。海外で半年間住んで染み付いたことは他人の評価を気にしないことの気楽さで、その気楽さは心を健康にする代わりに今まで私の人生にもたらしていた刺激的な何かを奪い去ったような気がする。人目を気にして生活すること、あらゆる人と隔てなく上手にコミュニケーションを取ることに疲れていたはずなのに、そういった生活から得られていた承認欲求の充足度や満足感といったものに私はいかに上手に騙されていて、私の人生がそれらによってどれだけ豊かになっていたのかということに気づく。

 

私は今とても人生が退屈だと嘆きたい気持ちでいる。恋愛やらSNSやら大人数の飲み会やら、何か自分の脳みそを騙せるものに出会いたいし、無理やり騙してやってもいい。でも海外生活を顕示して満足感を味わえるほど、私の心も脳みそもハッピー野郎じゃない。数年前まではそうやって素敵な場所に行くことや何か他人にもてなされたことを見せびらかすことで満足感を得ていたけれど、今はそんなことがない。それはこのソーシャルメディア時代においてすばらしく健康体であるのかもしれないけれど、そういったSNSの中毒性にまんまと騙されて自分の欲望を満たしていた頃のほうがはるかに幸せだったような気がするのはなぜだろう。私は世界の全てを知っているわけではない。でも、結局どこへ行ったって何をしたって環境が自分を変えてくれる要因というのはほんのわずかであるんじゃないかと疑い始めた今、こんな私に新しい世界を飛び回る気力なんてない。自己顕示欲を満たすという行為を傍観してしまっている今、おしゃれなカフェも高級なバーも以前ほど私には響かない。夢や欲望を叶えたって結局はキリがないんじゃないかと勘付き始めた今、私の中には希望にあふれた志が何もない。それじゃあ、私は一体何がほしいのだろう。夢や野望はきっと叶える過程が一番美しいのであって、いざ叶えてしまえばそこに残るものは達成感よりも絶えず生まれ続ける欲望とそれに対する絶望なんじゃないかって思い始めている今、人生という名のマラソンを切羽詰まった短距離走のように走り続けて、自分の目標をコンスタントに持っては叶えていくという生き方は、私にはしんどい。でもそうやって目標を持つことや何かを追うことを諦めてしまえば、同時に私は別の意味で苦しくなってしまう。だから、困っている。

 

なんて、まるで人生が大変であるといったふうを装った立派な悩みは、紛れもなく海外ニート生活が私にもたらしてくれたものであるから、ちょっと恥ずかしい。毎日を忙しく生きる人は、おそらくこんなこと考えないからね。

 

 

Novelty Wear Off

 

 

 

The novelty wears off.

 

日本に住む外国人の友達から教えてもらった。私は海外生活に憧れがあったから、日本に住んでいる外国人の友達に、海外で住むってどんな感じなの?と聞いた返事がこれだった。目新しいのは最初だけ。

 

昔はこの言葉の意味がわからなかった。いや、意味はわかっていたけれど、中々腑に落ちないなぁと思う自分がいた。地元での長すぎる生活に飽き飽きし、とにかく新しい何かを求めていた自分にとって、その新規性がいつか廃れるなんて、そんな先のことを考える必要性がまずなかったし、新規性が自分にもたらす新しい刺激をひどく期待していた。

 

それから様々な経験を重ねて今になって、ようやくその言葉が腑に落ちてきた。よく留学とかワーホリとか終わった後に、すごい充実してた!とか、本当に最高の何ヶ月、何年間だった!なんていうSNSの投稿を目にするけれど、私にはそのエネルギーがないというか、そうするほどでもないと思うくらいに目新しさは消えていた。愛着というのも違う。残ったのはもっと冷静な感情だった。

 

新しい世界と経験にさらされることを求めて海外に飛び出した。その結果、私の中に一番染み付いたものは新しい経験がもたらしてくれる刺激や楽しさではなく、結局どこで何をしたって自分次第であるという事実。私は環境が自分を変える要因になると信じていたし、実際にこちらに来て私の考えや価値観は変わったように思う。だからこそ、シンガポールでのこの6ヶ月を冷静に見つめる自分が、今いる。考えてみたらシンガポールに来たのも消去法みたいなもので、来るべきところややるべきことに人は自然と導かれるのではないかと今は感じている。昔はどうにかして自分の道を切り開く、用意されているレールに対抗してまで自分の道を一からつくっていくことがカッコいいと思っていたし、実際にそうしていた。でも今になって思うことは、うまくいかないときは固執するのをやめて、流れに身を任せてみてもいいんじゃないかということ。Novelty wear off. 新しい景色はいつか廃れる。目新しさがもたらす刺激は長続きするわけではない。なんとなく、それと同じような感じで、自分が見たいと強く願う景色がたくさんあり、そしてそれをたくさん手に入れることができたとしても、そこから生まれるHappinessやSatisfactionだって、いつのまにか慣れてきてその感触が薄れていくのかもしれない。

 

だから、そうやって手にしたいものを思うままに手に入れていくことだけが幸せじゃないよな、と私はなんだか身をもって今感じているところです。

 

とはいえ自分の志をしっかり持つ人は素敵だし、自分も芯を強くもっていたいと思っています。でもそんな常に気を張ってるんじゃなくて、肩の力を抜いていたい。もしも何か行き詰まったとしても、根っこの部分でゆるぎない強さがあれば、台風には負けちゃうかもだけどちょっとしたゲリラ豪雨くらいではよろめかない程度の強さがあれば、いざ困ったときは外部の環境や社会が私を適切な方向に導いてくれるのだから。

 

そんな力のバランスの保ち方を学んだ気がするシンガポール生活でした。でも、こんなふうに「外部の環境に身を委ねてもいいんだ」という気持ちになれたのは、間違いなく私がシンガポールで出会った人たちや、自分を取り巻いた環境のおかげであると思う。自分にとてつもなく大きな変化を与えてくれたかと聞かれるとそこまでじゃないのかもしれない。けれど、それでも来て良かった、この選択と行動をとった自分について、なかなかやるじゃん、とは強く思ってる、そんな感じのもの。

 

最後の勤務はあっけなく終わって、残りの11日間はシンガポールニート生活。大好きなシンガポールフードをたくさん食べられたら、心置きなく帰国できるかな。

 

 

#20

 

 

シンガポールにはクラークキーという街がある。島内No. 1のパーティースポットで、ジャズミュージックの生演奏が聴けるパブからクラブ、居酒屋まで、様々な形でお酒を楽しむことができる。煌びやかなネオンの明かりから鳴り響く音楽まで、全てが人々をスーパーハイにすることに全力である、そんな場所。

 

そんな華やかなクラークキーで、はるばる日本からやって来た友達とお酒を飲む。勢いに任せて2人なのに3リットルのビールタワーを注文し、楽しかったのは最初だけで、ビールの無言の圧力と途方もない量に少し後悔する。お腹が苦しくなったからお店を出て、街を歩く。シンガポール川にまたがるリードブリッジの上。路上ライブの音を背景に、柵に登っておしゃべりする。オアシスのDon't look back in angerをリクエストすると快く歌ってくれて、その即興ぶりとひとつの曲がいとも簡単に見知らぬ私たちをつないだ事実に感動する。思い出に残そうと言ってふざけてラジオ収録という名の会話の録音を始める。お酒とラジオという建前のおかげで、ちょっとくすぐったくなるような話だって普段よりも自然にできる。需要と供給が気持ち良いくらい一致した結果、いつもは相手にしないような道を彷徨うおじいさんから2ドルでポケットティッシュをいくつか買った。前を横切る日本の大学生みたいな男の子たちは泥酔していて、見知らぬ私たちを相手に長く付き合った彼女と別れてつらいんだという失恋話をこぼしている。

 

おしゃれなバーか、もしくはパリピなクラブを求めてやって来たのに、結局落ち着く先は外にむき出しになった橋の上だ。高級なイタリアンよりも大衆居酒屋でデートしたいように、おしゃれカフェで綺麗に盛られたランチプレートよりも焼肉食べ放題やラーメン屋の炒飯セットにそそられるように。結局どこにいたって何をしたって私の感性は形を変えて存在し続けている。誰かが言う良いものではなく、お金が語る価値ではなく、自分が楽しくて心地良いと思えるもの。大切にしたいと思えるもの。もしも何年後かにとんだお金持ちになったとしても、そんな感性を持ち続けられていたらいいなと願う。

 

 

 

On the Flip Side

 

 

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スラム街を彷彿とさせる景色は、ふいに入り込んだ裏路地に当然のように存在するからたまにびっくりしてしまう。日本と比べたら裏の面を隠すという意味でシンガポールは爪が甘い気がするのだけど、それは決して悪口ではなく、むしろ褒め言葉だ。表には裏がある。本音をひた隠して建前だけで塗り込められた世界には、まるでそこには最初からその建前しか存在していなかったような錯覚を与え、本音を抱えて生きる人たちの心を殺す。光のある場所には影がある。そんな当たり前のことを必死になって揉み消す必要はないんじゃないかと、私なんかは思うのだけれど。

 

ピンボケくらいの関係性

 

 

他人の人生の背景になるくらいがちょうどいい。目の前の物体にピントをあわせたせいでピンボケしちゃっている写真の背景のような、他人にとってそういう存在であることが一番心地良いと私は思う。そして私がそう思うのと同じように、私を取り巻く人たちも私の人生にピンボケくらいの気持ちで寄り添ってきてくれたらと願っている。どんなに親しい人であってもその人は当然私自身ではなくて、だからそんな他人の人生に自分自身のそれと同様の思い入れを抱えることはできないし、そこに深く踏み込むことに費やす膨大なエネルギーを私は持ち合わせていない。


だから今海外での生活ってすごく気持ちがいいんだ。この先永遠にここに住むことはないんだと乾燥した気持ちで過ごす今、他人との距離感は自分の中でベストに保たれている。近くにいすぎた人々と、物理的にどうしようもないと諦めのつく理由で離れることができる。これは私の周りにいる人が嫌いとかそういうことではなくて、ただ単に距離感に疲れただけ。日本だと、無意識のうちに追い込められるから。同僚と仲良くしないと。飲み会に行かないと。旧友ともキャッチアップしないと。そういった生活は孤独になることを異常であると思わせてくる。人間なんてみんな孤独であるのが大前提で、当たり前なのにね。でも日本の外にいたら、そうやって孤独を選び取ることが自然の選択肢としてちゃんとそこにあって、それを選ぶことができる。孤独な状態が自分の意思と都合で手に入って、許容されている。それが気持ちいい。


だから私は帰るのが怖い。楽しみな気持ちもあるけれど、日本に戻ることで自分がまた元に戻ってしまうのが怖い。人と過ごす時間をわけもなく欲してしまう、そんな自分になるのが怖いし、そうなっていくことが避けられないのが私の未来ならば、そんなのは決して待ち遠しくなんかない。