ニートです。

日記とメモ。

人間淘汰

 

 

 

 

他人の人生の背景となって生きていきたいと、自分は言ってた。もう二ヶ月以上前になるんだ、まだ私がシンガポールに住んでいたとき。その時すごく心が身軽だった。人と離れること、人と会えないこと、それが物理的な距離で絶対に無理だと約束されている、その環境がすごく心地いいと思えた。だから帰国して、また物理的に人に会える距離感に戻ることに、怯えていた。また心を蝕まれて、他人のことばかりを気にする、そんな自分に逆戻りしてしまう気がして。

 

でもそんなことなかったんだ。世界に大きな誤算が起きた。外に出れないのだ。体は健康で、娯楽施設は整えられ、天気もよく、すぐ連絡をつけて会いに行ける人々が居るというのに、それが突然許されなくなった。まさかここまで事態が大きくなるとはな。それが正直な心の声だった。

 

みんながオンラインであらゆることを楽しむ時代だ。それしか手段がないからしょうがないし、でもしょうがないと形容するのは恐れ多いんじゃないかと思うほど、今ではみんながそれを心底楽しんでいる。いくつかネット記事を読んだ。ワイドショーで取り上げる「オンライン○○の楽しみ方」や、ソーシャルメディアにあふれるZOOM飲み会ネタやその事後にアップされる「楽しかったね」「コロナ終わったらまた飲みたいね」そんなありきたりな決め台詞には飽き飽きして、そうじゃない記事やブログに出会った時は、まるで嬉しくて飛びついた。インターネットが窮屈だと、そんな意見があった。私は結構、それに共感してしまうんだ。

 

 

人に会わなくなるのが必然だ。皆んな口を揃えて寂しいと言う、SNSをスクロールするたびに溢れる言葉たちに、そこからはみ出る各々の手に、私は首を絞められた気になった。まるでそれが今の模範解答みたいで、苦しかった。私は別に、寂しさなんてなかったから。

 

稀に誘われるzoom飲み会のふんわりとした断り方を体得して、自分を囲う人間関係は淘汰に飲まれていく。暇さえあれば飲みに出かけていたくせに、一人に慣れると一人に対して我儘になる。自分の時間を蝕む人をどんどん排除して、気がつけばこんなときでも繋ぎ止めておきたい、そんなものだけが私の周囲をわずかにかくまっている。

 

この生活がずっと続くのも、これが生活のスタンダードになるのも、悪くないよな。そう思い始めていた。緊急事態宣言が解除される中、だから私は、少し置いてけぼりを食らっている。