ニートです。

日記とメモ。

不要不急の感情ごっこ

 

 

みんな必死に、自分が生きる毎日に抑揚をつけようとしている。人々が疲弊し、心を荒ませ、自分の意見や主張、感情、考えをここぞとばかりにオンライン上で爆発させるのは、このおバカなウイルスが急速に拡大しているせいなのか。そのストレスのせいなのか。私はそんなの、今に始まったことじゃないよなあ、なんて思って、人々の叫びをスクロールする。なんでもかんでもそいつのせいにするのは如何なものか、とも思う。誰かを標的にして、何かを標的にして、それを責めることで、心を紛らわす。その行為が自分の心に余裕を与える。こんな自粛ムードの世の中で、激動の感情を内包し、それをここぞとばかりに発信することで、この味気なくて先の見えないシチュエーションに味をつけようとする。旅先で出会える新しい景色や、おしゃれして出かけるときの高揚感、外で食べる美味しいご飯、おしゃれなカフェやレストラン、そして、それらを顕示することで得られる優越感と、満足感。私たちの生活を彩っていたのは間違いなく「不要不急」にあたるものたちばかりで、それを突然、一気に奪われてしまった私たちは、そうやって何かを標的にしたり、それに対して大袈裟な感情を抱いたり、そういうことを通してしか人生に色をつけられなくなっているのかもしれない。

 

このソーシャルメディア時代に流れる意見や批判の殆どは、直接的な被害に対する糾弾ではなく、政治家であったり、著名人であったり、何も知らない他人だったり、そういう人々に対するものだ。直接的な関わりのない他人に対して、みんな怒る。みんな物申す。なんだか気持ち悪いなあ、と思ってしまう。そんな私は甘ったれているのだろうか。何かを強く批判する人を見ると、じゃああなたがやってみたらいいのに、とか、じゃああなたがその立場だったらどうしてたの、とか、私は言いたくなってしまう。そんな私は冷たくて、底意地が悪いのだろうか。もちろん私も、いや、それはないだろ、なにしてんだよこいつ、なんて思うことがないわけではない。けれど、それはそれであって、起こってしまったことはもう、変えられないのだから。そんな事象をいちいち引っ張り出して、揚げ足をとって、感情を爆発させることは、私はしないし、やる気が出ない。それが遠い存在の他人であればあるほど、どうでもいいと思う。なんて言ってたら、もっと問題意識を持てとか、今起きている現実と向き合えとか、こういう若者がいるから日本はだめなんだとか、私自身がまさしく何かに対して怒りたい人や物申したい人の矛先として、大活躍するのかもな。その可能性は全然、ありえる。でも、それで誰かの人生に刺激を与えることができるのならば、悪くはないよな、なんて思う。

 

死ぬまでにやりたいことは?と聞かれても、とくに何もないかなあ、と答えるような人間が、自分だ。恋愛や対人関係で頭を悩ませ、そのおかげで泣いたり、眠れなかったり、必死に他人の気持ちを探ったり、昔はそんなことをしていたはずなのだけど。私はいつのまにか、そんなのなくたって人生生きていけるんだって、気持ちから可能な限り目を逸らして、事実だけを抽出するような生き方ができるんだって思って、不要不急の感情の起伏を、どこかに置いてきてしまった。そういった人生は生きやすいということに、たかが20数年生きただけの若造だけれど、どこかで気がついてしまった。そのライフハックのようなものを抱えながら、ここまで生きていることに気がついた。どうしようもなく乾燥しきった自分の感性を、私は結構気に入っている。