ニートです。

日記とメモ。

平均80点の国は生きづらい

 

 

綺麗事にはうんざりだ。就職活動で夢やビジョンを語らせるのだって、別にしなくてもいいんじゃないか、それで皆んなが無難な建前の夢を作り込んでしまうくらいならば。大きな目標とか、立派な夢とか、なくたっていいじゃないか、と思う。それなら、最初から本音でいいじゃん。お金が欲しいから働くんです、生活のために働くんです、そういう人がいたっていいじゃんって、それが結果的に社会に価値を生み出す原動力になり得るのならば、それでいいじゃない。各々の原動力なんて十人十色であるはずなのに、皆んなが優等生のような建前を用意しなきゃいけないんだと、そう無意識に考えさせるこの国の考え方というか、その建前の姿が評価される文化とか、常に立派な人間でいなきゃという強迫観念とか、そういうのを美徳にするのとか、正直ちょっとだるいよなあって思っちゃう。だってみんなそれで、多少なりとも苦しんでるんだもん。自分のために生きて、結果的に社会にコミットできていたくらいの、そういう生き方でいいんじゃないか。付き合って数年やら数ヶ月やらで干からびて、冷え切ってしまう男女関係だって、結局は皆んな、いい女いい男と思われたくて最初のデートで頑張るから、取り繕うから、後からポロポロと崩れていくんでしょう。みんなそうやって生きるの、やめたらいいのに。よく見せようとするのも、そういう建前を評価するのも。でもそんなのだって、私の勝手な願いであるのもわかっている。わかっているし、私だってそんな社会に迎合してしまっているから、強要なんかはできないし、期待なんかもする立場じゃない。本音と建前がくっきりと分かれているこの世界、どうしても嫌なら、私が住む場所を変えたらいい。形はないけど確かに存在する既成概念に対して、昔は無性にイライラしていて、そんな社会通念なんて無視して、踏みにじって、枠からはみ出してやろうって、反発して、抵抗してやろうかって、まるで中二病みたいなことを大学生のときに考えていたのだけれど、今は郷にいる限りは郷に従わざるを得ないことがあるのもわかる。だし、そうすることで生きやすくなることも、無駄なエネルギーを消費するのはやっぱり無駄だということも、わかるようになってきた。だからせめて、今はただ、出来る限り、自分に素直でい続けたい。赤点ギリギリくらいの、単位が貰えるか貰えまいかの「可」と「不可」の瀬戸際のような、従うべき枠のギリギリに立って、自分の思いを、自分の言葉で、できる限りそのまま伝えることには、執着していたい。

 

 

ビスマルクだって未来はわからない

 

 

もしかしたら今、人生で一番自分を圧倒する出来事に直面しているのかもしれないなあと感じている。生きていると、多くはないけれど、あ、これが歴史が変わる瞬間か、って感じることがある。これは教科書に載るし、きっと一生残る歴史になるんだろうなあって。でも、今は、そんなもんじゃない。日本史や、ましてや世界史が変わるとかそんなレベルじゃない。もっと大きな地球とか宇宙とかのスケールで、何かが変わる瞬間を見ている。いや、見ているという表現さえもおこがましいと感じてしまう。私たち人間は食物連鎖の頂点に立ち、地球を牛耳っているといい気になって、でもそんな驕りを全て切り崩していく計り知れない自然の力には抗えなくて、やっぱり私たちは自然の淘汰に呑まれずに生きることも、仲良く共存していくこともできないような気がしている。

 

このまま地球がダメになって、何千年何万年後には人が住むような場所じゃなくなってる可能性だって、なくはない。この状況が落ち着いたらどっか行こうとか、アフターコロナの経済を考察しようとか、私はなんか、そんな気持ちになって未来を考えることができないよ。どんなに賢い学者さんも、考察が鋭い専門家も、賢者は歴史に学ぶんだよとビスマルクに言われても、皆んな100%の未来なんてわからないでしょう。

 

地球に本当に必要なものは何か。自然がそれを見極めて、今まで散々、強情な欲望を振りかざしながら虚勢を張り続けた人間たちを、ふるいにかけている。私はまだ死にたくないし、周りの人にも死んでほしくはない。でも、生物学の観点で見たら自分一人の死なんてこれっぽちの影響もないんだよって、私の知る中で一番賢い友人に教えてもらったことがある。いつもなら、そういう自然の摂理のお陰で小さな悩みを笑い飛ばしたり、自分がどうしたって世界は変わらないんだからって吹っ切れたりできるのだけど、今はなんだかその事実がすごくつめたくて、かなしい。

 

 

#25 年度末の過ごし方

 

 

去年の3月31日はなかなか、印象的だった。みんなが明日から社会人だって言ってる中、私は明日から何者でもない何かになっちゃうんだって思って、その何とも言えない不安の中にいた。抗うこともできないし、否定することもできないから、何もできないんだけど、でも何かしなくちゃヤバイって思ってて、自分で決めた人生のくせにこれでよかったのかなぁなんて思ったりして、自分の人生を生きてやるぜ!やりたいことをやってやるぜ!YOLOだぜ!(古い?)なんてSNSでよく見る人生謳歌してそうな人たちを頭に思い浮かべて、いや実際そういう意思選択を取ってみたらそうでもないんだなあって、他人事みたいに考えていた気がする。そんな細かい心情までは覚えていないけど、得体の知れない不安をごまかすために夜中に友達とドライブに出掛けたことは覚えている。そのときの背徳感は、なかなかよかった。みんな明日から社会人なのに、何もないド田舎で目的もなくドライブをする。去年は俗世と離れた世界にいる自分に酔いしれていたが、今はなんだかそうじゃない。暇だからじゃあ、どっか行こっか。なんて、そんな選択が当たり前のように取れる世界が、遠い昔のように感じる。

 

今年の3月31日は全くなんの思い入れもなくて、このご時世と私のニートという職業も相まって家から一歩も出ず、日付を確認するという作業さえもロクにせずに終わっていた。新年度という区切りを気にしなくなったのは、私の性格がおおらかになったからなのか。はたまた、いわゆる無敵の人になってしまったからなのか。きっと後者なんだろうな。減らない体重を世の中の "Stay at Home" のせいにして、私は今日もひきこもる。夜中にドライブへ出かけた去年の自分を懐かしみ、あれはよかったなあと思い出しながら。たとえニートの引きこもりだとしても、今はそれだけで何かを救えているのかもしれない。

 

 

そのくらいは考えてほしいなって

 

 

あなたが思う現代社会の問題点はなんですか?という設問に対して真っ先に浮かんだのが、「他人の指標で生きている人間が多すぎる」ということだった。中学生が何人かと連れ立っておトイレに行くこともそうだし、会社の大きさとか大学のネームバリューとか、自分自身のものさしではなく他人の意見や評価を軸にして行動する人たちが多いこと。でもその次の設問で、じゃあそれに対する解決策を具体的に教えてください、と問われたときに、考えてしまった、この問題に解決策なんてあるのだろうか。こんなのってその人自身が自分で何かを感じたり気づきがあったりしないと変えられないことであって、そもそもその人が他人指標で生きることについて自分自身を納得させていて、それに満足しているのなら、実際のところ何の問題もないんじゃないかなあ、なんて思った。他人の指標で生きること、周囲の波に流されながら生きることの、何が問題なんだろう。これは社会の問題点なんかじゃなくて、ただ単純に私が嫌だなあとほんのすこし鼻につくタイプの人間の話なんじゃないかと思えてきて、だから私はそれをエントリーシートに書くのをやめた。頭を白紙にして、いちから社会の問題について考え直す。空欄はまだ埋まらない。

 

でも今はこんな平穏さを失った世の中だから、やっぱり考えてしまうんです。こんなときでも平気で人ごみの中に飛び込んだり、良識の範囲を超えた買いだめをしたりする人たちって、その感性はこの日本的な他人指標で生きようとする傾向や性質によって生まれてしまったものなのかなあ、なんて。自分なら大丈夫ってふと他人事のように思っちゃう瞬間があるのもわかるし、問題に向き合ったが故に心配になってしまう気持ちだってわかる。でもどうしてそんな身勝手で自分本位のことができるのかなあって思ってしまうのは、私がこんなおバカなウイルスとは程遠いド田舎に住んでいるからなのだろうか。もしも大都市トウキョーに住んでいたら、私だってかごいっぱいにインスタントラーメンをつめこんで、スーパーの什器をからっぽにしてしまうのだろうか。そうじゃない、と願いたい。

 

私は基本的に他人に首を突っ込みたくないし、じゃあその代わりにあなたも私に首を突っ込まないでいてね、と常に願っているスタンスなのだけれど、でもどうしても今回ばかりは「他人の指標で生きている人間が多すぎる」ことについて、これは社会の問題点なんじゃないかって思わざるを得ない。その人がその人の人生をどう生きるのかなんてほんとうになんでもいいんです、結婚とか就職とか明日のランチは何を食べるのかとか、そういうあなた自身の決断についてはほんとうにどうでもいいんです。でも、今だから。こういうときばっかりは、なんだか口を出したくなっちゃうよ。やっぱりあんたらそういうのよくないよって、明らかに自分だけの問題じゃないんだから、さすがにそのくらい考えてよって、周りがどうとかじゃなくてさ、していいこととかしないほうがいいことの判別くらい、自分でしてよって、ちょっと首をつっこんで言いたくなってしまうんです。でも、ただそれだけ。ただそれだけで、じゃああなたはこの問題をどうやって解決するんですか?なんて聞かれたら、私は何も答えられない。答える術なんて何にもないし、解決策なんて知ったこっちゃない 。

だからやっぱり、私はこれをエントリーシートに書いてみようなんて、そんな賭けは絶対にしないんだけど。

 

On the Way Back

 

 

今朝、住んでいる家のヘルパーであるおばあちゃんが作ってくれたチキンカレーを食べて、家を出た。そんなに沢山の人と関わったわけではないけれど、それでも私のシンガポール生活を語る上で欠かせないんだろうなと思う人たちには幸いにして何人か出会えた。それでも、その日の朝、そのおばあちゃんとお別れをする瞬間が誰とお別れをするよりも一番悲しくて、寂しくて、涙が出そうになった。彼女とはそんなにべたべたと親密だったわけではなく、私が料理したいときにキッチンに行くといつもニコニコして話しかけてくれた、でも彼女は英語があまりできないから、会話という会話もままならなかった、そんな関係。彼女のWhatsappも知っているし、今後も連絡だって取ろうと思えばいくらでも取れる。でもすごく寂しかったのは、きっと私の日常にぴったりと入り込んだ彼女の存在のことを思っているからだろう。連絡取ればいいじゃん、また会いに行けばいいじゃん、なんて、そんなのでは絶対に解決できないようなもの。あの家の、あのキッチンで微笑んでくれるその時間と、その存在。それが私にとって愛おしいもので、私がまたあの家に戻らない限り、そして彼女がそこに居続けない限り、それはきっと今後何があっても一生手に入らないものである。だから、悲しい。

 


私にはそんな日常の一場面ずつがたまらなく大事で、愛おしくて、だからこそシンガポールを離れるのは言葉にならない寂しさと悲しさがある。でもそれはどうやったって処理しきれないものだ。人が恋しいならその人に会えばいい。連絡を取ればいい。でも違うから、人そのものよりも、私は環境が恋しいから、そしてそれに対する諦めもきちんとあるから、そんなどうしようもないことで嘆いて涙を流したって仕様がないじゃないかと干からびた気持ちが生まれる。だって本当に、泣いたってどうにもならないもの。だから私は、おおそれた雰囲気なんか一切出さずに、普段通り日々をやり過ごすように今日も生きている。あっけらかんとした顔でシンガポールを離れ、薄暗い飛行機の中で理性と感情の入り混じった自分の胸中をメモに書き殴っている。そうしていると、ここで過ごした6ヶ月は夢だったんじゃないかと、馬鹿みたいだけどドラマのセリフみたいだけど本当にそんな気がしてくる。色々なことがあったはずなのに、いざ現在地に立ってみるとまるで何もなかったみたいで、日本を離れたあの日と日本に戻る今日との間に流れる月日の計算が全然うまくできなくて、時間の感覚がかなり狂う。

 


飛行機がそろそろ日本に着く。私は機内で読んでいた本の内容も相まって、なんだかすごく切ない気持ちでいる。あっけなく帰ってきたここは、寒い。あのじっとりとした執拗な暑さが染み付いていたはずなのに、この寒さを安易に受け入れてしまう自分の体が悲しい。私はこれから起こることの全てを、そうやって当然のことのように違和感も疑問もなく受け入れていくんだろうと思ったら、この半年間で私の中に積み上げられたものたちは一体なんだったんだろうと、すごく不思議な気持ちになる。久しぶりに帰る実家だってきっと当たり前のようにただいまと言えるんだろう。そんな帰る場所がある安らぎと幸せを頭ではわかりながら、私はそうやって自分の中で愛おしいものであったはずの何気ない毎日を、その感覚を、あっという間に忘れてしまう自分が嫌でしょうがない。でも環境なんてきっとそんなものだし、環境にもたらされる何かに私はこれからも抗えないんだろう。何か新しいことが待っているはずのこれからの人生の中で、やっぱりもう一度、とは言わずに何度でも、私は旅をすることをきっと諦めきれないんだろうな。

 

2020.03.11 Wed